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部門別世界一航空機特集「航空機小航空展」
このページは、トンプソン杯レースの名機「ジービー
R-1」、シュナイダ杯レースの覇者「スーパーマリーンS.6B」、
世界最速の水上機「マッキー
MC.72」、世界一豪華な大型飛行艇「ドルニエ Do-X」、
世界一大きな飛行艇「ヒューズ
HK-1」と小さな飛行機「スティッツ・スカイ・ベイビー」、同じ運命のコサック「アンドロノフAn225」、
世界最大容量の飛行機ベルーガ「エアバス
A300-600」、北海一号、スピットオブセントルイスなどを紹介します。
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新千歳空港ターミナルビルの3F
航空機小航空展は新千歳空港の3Fにあります。 |
まずは、トンプソン杯レースの名機から紹介します。
1932年の全米航空レースのスピードを競う大会を征した優勝機でしたが、太く短い独特の形から操縦が難しく危険とされていました。
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トンプソン杯レースの名機 179-39 168-91 |
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ジービー
R-1 |

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トンプソン杯レースの名機
ジービー R−1(1932年)
樽型の航空機、グランヴィル・ブラザーズ製ジービR−1
”スーパー・スポートスター”がマサチュセッツ州スプリングフィールドで
初飛行し3週間後に、オハイオ州クリーブランドで開催された
「トンプソン杯」スピード競技会に参加し世界最高速度記録を樹立しました。
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GeeBee R−1
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1932年に行われた全米航空レース大会のトンプソン・スピード・レースでアメリカの
名パイロット、ジミー・ドゥリトルが操縦し優勝した飛行機です。
予選では平均時速約476キロの世界新記録を打ち立てました。
ビヤ樽か低砲の弾丸のようなスタイルの機は巨大な空冷星型エンジン、ブラット・アンド・ホイットニー「ワスプジュニア」の
搭載を念頭に置いて設計されました。
短い胴体に主翼と機端に小さな尾翼を付けたこの高性能レーサーは、同時に操縦が非常に難しい危険な飛行機でもありました。
しかし、ドゥリットルはスタートと同時にリードを奪い、そのままスピードを落とさずにレースの規定に従ってパイロンの置かれた
コースを250フィート(76.2m)以下の飛行高度で回り、他機を圧倒して優勝しました。
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主脚
収納するスペースも余裕もありません。出したままぶっ飛ばします。 |
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コクピット
尾翼の前にあり着陸の場合の視界は大変悪いものでした。 |
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エア・ブレーキ
胴体両脇にあるエア・ブレーキは大変重要です。 |
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ジービーR−1
1932年に行われた全米航空レース大会の「トンプソンスピード
レース」でアメリカの名パイロット・ジミードゥリトル少佐が
操縦し優勝した飛行機です。
予選では平均時速約476kの世界記録をうち立てました。
ビヤ樽か、大砲の弾の様なスタイルの機体は巨大な空冷星形エンジン・プラット・アンド・ホイットニ”ワスプジュニア”の
搭載を念頭に置いて設計されました。
短い胴体に主翼と極端に小さい尾翼を付けた、
この高性能のレーサーは、同時に操縦が非常に
難しく危険な飛行機でもありました。
しかし、ドゥリトルはスタート時にリードを奪い、
そのままスピードを落とすことなくレースの規定に従って
パイロンの置かれたコースを250フィート(76.2m)以下の
飛行高度で回り、他を圧倒して優勝しました。 |
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幻の樽型競技機
似た形の飛行機 チイェラノフスキー BICh-21
同機はSG-1(競争用航空機第一号)と名付けられ、主翼は付け根が逆ガル形式になっており、
水平尾翼は主翼と一緒になったデルタ型でした。
競技用として使用するためコックピットは低く配置され
主脚装置は手動式から風圧で引き込むように改良されました。
パワープラントには220馬力のエンジンが使用されましたが、完成した1940年にドイツ軍が
ヨーロッパ各地に侵攻して開発は中断されました。 |
次はシュナイダー杯レースの覇者「スーパーマリーンS.6B」の紹介です。

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シュナイダ杯レースの覇者
158-79-10 179-07-33 179-29
179-38-01 |
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スーパーマリーンS.6B |
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シュナイダー杯レースの覇者
スーパーマリンS.6B(1931年)
1912年に始まった「シュナイダー杯レース」は水上飛行機の権威あるレースで、
イギリスは27年、29年と連続優勝しおり、31年に行われたレースはイギリスの
三連勝をかけた重要なレースとなりました。
イギリスが三連勝すれば、そのシュナイダートロフィーを永久保持する事が出来るのです。
レースは準備が間に合わなかったフランスとイタリアが棄権、唯一参加した
イギリス機スーパーマリンS.6Bのスピードに注目が集まりました。
S.6Bは観客の期待どおり平均時速547.3kの世界記録でコースを
回りシュナイダー杯を獲得しました。
更に、その後もスピード記録挑戦が続けられ時速400マイル(時速643k)の
壁を破った最初の水上機となりました。 |
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SupermarineS.6B
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シュナイダー杯航空レース |
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Schneider Trophy |
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1913年に優勝したドペルデュッサン単葉機
ノーム製ロータリー式エンジンを搭載し、
胴体はユリノキ材の薄板を重ね合わせた上に、ニスで亜麻布を張り付けて製作されました。
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レースの概要
ジャック・シュナイダーの主催で1912年から始まった
水上機航空レースには、各国から多くの飛行士たちが参加して、その腕を競い合いました。
しかし、1923年から米海軍が参加するようになり、シュナイダー杯は、徐々に国威発揚の場になっていきました。
初期
1912年、フランスの大富豪ジャック・シュナイダーは、水上飛行機による年1回の航空レースを初めて開催しました。
1913年のレースでは、ドペルデュッサンを操縦したフランス人のモーリエ・プレヴォが優勝しまし、モナコで開催された1914年のレースでは、英国のハロルド・ピクストンがソッピース・タブロイドを駆って優勝しました。
第一次世界大戦で中断
1919年、第一次世界大戦によって中断されていましたシュナイダー杯が再開されフランス、英国、イタリアなど各国か
ら参加者が集まりました。
1923年に米海軍が参加し、好成績を収め、この年以降はナショナル・チームでなければ費用がかさみ参加が難しくな
りました。
1924年は米海軍のみの参加となりスポーツマン精神を尊重し同軍は出場を辞退しました。
1925年の、ボルチモアで再開されたレースでは再び米海軍が勝利しました。
1924年の米海軍が不戦勝でも参加していれば「5年間に3度優勝すればトロフィを
永久保持できる」というルールにより同軍はトロフィーを持ち帰っていたはずです。
1926年には、真紅に塗られたマッキーM.39が優勝し、
1927年には、ヴェニスで開催され、英空軍のスーパーマリーンS5が453.26km/hの記録で優勝しました。
これより以降は2年毎の開催と変更されました。
終回
1929年に、英国で開催され、ロールスロイス製Rエンジン(出力1,900馬力)を搭載したスーパーマリーンS6が、
平均速度528.86km/hを記録してマッキーの最新型に圧勝しました。
1931年は、大恐慌時代を反映して航空レースのような道楽には出費できない参加者が多かった中、英国の裕福なヒュ ーストン夫人が「英国人なら祖国のタイトル防衛に、最後のシャツ一枚を売り払うこともいとわないでしょう」
と、気前よく10万ポンドの小切手を提供しました。
その間、に、スーパーマリーン社はS.6B水上機を製作し、ロールスロイス社はRエンジンを改良。
この年の参加者は英国チームのみとなりましたが、7年前の米海軍が示したスポーツマン精神を
無視するかのように、英国は単独で周回コースを飛行して優勝し、トロフィーを永久保持することになりました。
ここに、19年のシュナイダー杯の歴史は閉じられました
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1922年のシュナイダー杯の激闘
今回のレースでイタリアが優勝すれば、トロフィは永久にイタリアのものとなるはずでした。
予選の結果、フランスのCAM36飛行艇2機が脱落したため、イタリア・チームの3機に
英国のスーパマリンただ1機の挑戦となりました。
1周目で平均速度241km/hを出した英国ビアートのタイム更新を阻止するため、
イタリア・チームの3機は互いに協力し、周回コーナーなどで英国機のブロック戦術を
仕掛けました。(上)
このため英国機はイタリア機の直後に着くことを余儀なくされたビアートは、
先行するイタリア機よりも高度をあげました。
それから7周後、最後まで食い下がってS.51のプレッシャーを振り切り、
ビアートは2分以上の大差をつけてレースに優勝しイタリアのトロフィ永久保持を
阻止しました。 |
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イタリア機マッキM.7 |
優勝した英国機スーパーマリン・シーライオンU |
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スピットファイヤ設計
S.6Bの設計者であるレジナルド・ミィシェルは、
後にスピットファイア戦闘機を設計しました。
一方、ヘンリー・ロイス卿ひきいるRエンジンの
設計チームは、
マリーン・エンジンを生み出すことになります。 |
マッキーM.39
マッキーM.39単葉機は、1926年にハンプトン・ローズで
開催されたレースの優勝機です。
マリオ・デ・ベルナディは、優勝から4日後に水上機による
世界速度記録416.65km/hを打ち立てました。 |
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スーパーマリン
S.6B
1931年9月13日 この日のシュナイダー杯レースは、J・N・ブースマン空軍大尉の操縦する
スーパーマリンS.6B水上機が優勝した結果。英国が3年連続で優勝したので、同国がシュナイダー杯を
永久保持することが認められシュナイダー杯の歴史は閉じられました。
レースの内容はヨーロッパの大恐慌時代を反映し参加機はスーパーマリン1機のみで、ブースマン大尉の記録は、
全長350kmのコースを平均速度547.395km/hでした。
前年参加したS.6競争機の改良型であるS.6Bは、最大出力2,300馬力の改良型ロールスロイス製
エンジンを搭載していました。
この記録は19年前の最初の優勝記録の実に7.5倍でした。 |
国家の威信と航空技術力を懸けた飛行機レースが行われていた1934年に製作された、
世界最速ピストンエンジン搭載の水上飛行機です。

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世界最速の水上機
179-00-12 179-41-01 |
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マッキ MC.72 |
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世界最速の水上機
マッキ MC.72(1934年)
1920年代から30年代にかけての飛行機レースは単に早さを競うだけでなく、
国家の威信と自国の航空技術力を賭けた激しい競争に加熱していきました。
その中の「シュナイダー杯」レースは水上飛行機のレースとしてフランス、イタリア、
アメリカそしてイギリスがトロフィーを奪い合い、1931年にイギリスの「スーパーマリン号」が
優勝してトロフィーを自国のものとして、その幕を閉じました。
しかし、勝利の切り札として2重反転プロペラを開発していた、イタリアのマッキ社は
この結末に不満を抱き、天才的設計者マリオ・カストルディが設計した
「マッキMC.72」でスピード記録に挑戦し、時速約709キロを記録しました。
この記録は、ピストンエンジンの水上飛行機が持つ記録として以後、破られていません。 |
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/Macho MC.72seaplane
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マッキー
M.52
1929年のシュナイダー杯で英国のスーパーマリンS6に次いで平均速度457.380km/h
で2位に甘んじました。
エンジンは、新しいフィアット製A.S.3 1,000馬力のパワープラントを搭載。 |
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1926年シュナイダー杯優勝機 マッキーM.39
/MACHO M_39 |
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この機は、シュナイダー杯出場のため、左回りの周回コースで急旋回性能を高めるために、
胴体から左主翼端までの幅は、その反対側よりも若干大きくされていました。
また、燃料タンクになっていたフロートは、プロペラの回転トルク作用に呼応して左右の浮力を変えてありました。
エンジンは気化器に問題があったものの、800馬力の出力を出せるよう強化されたA.S.2エンジンを搭載、
1926年のシュナイダー杯に3機が参加し、マルオ・デ・ベルナルディ少佐が操縦した機体が
平均速度396.698km/hで優勝しました。 |
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マッキー M.C.72 |
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1934年 水上機による世界速度記録樹立
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マッキー MC72レース用水上機
1934年10月709.209km/hの世界速度新記録が作られました。
この機は1931年にシュナイダー杯に出場する予定でしたが、参加できず
その年、英国が3年連続優勝したためシュナイダー杯は英国が永久保持することなり
マッキーMC72は無冠の記録保持となりました。
この記録はFA(国際航空連盟)のC−2クラス(ピストン・エンジン水上機区分)では、
いまだ破られていません。 |
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次は
1929年に製作された豪華飛行艇でしたが、飛行機の実用性が理解されず、
定期航路に出ないまま博物館に寄贈されました

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世界一豪華な大型飛行艇
124-75 168-92-14 179-36-01 |
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ドルニエ Do-X |
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世界一豪華な大型飛行艇
ドルニエ Do-X(1929年)
ツエッペリン飛行船の設計者として有名なドイツのクラウド・ドルニエが
作った大型飛行艇です。
当時、太平洋の定期横断ができる唯一の航空機だった飛行船に
変わるものとして製作されました。
12基のエンジンと幅48メートルの翼を持つ機体は、それまでに作られた
重航空機のうち最も大きな物で、その機内はダイニングルーム、寝室、高級カーベットを
敷きつめた中央サロンを備えた豪華さで169人の乗客を運ぶことが出来ました。
しかし、当時は未だこの飛行機の実用性を理解する人がおらず、実際に大西洋ですら就航することがないまま、放置され、最後は博物館に寄付されてしまいました。 |
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Dornier Do−X
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ドイツの技師クラウディウス・ドルニエ
ドルニエ得意の直線主翼にジーメンス社生産のブリストル製ジュピター^9気筒空冷星型エンジン(525馬力)
を12基取付けた巨大な旅客用飛行艇で、機体は主翼上面にエンジン6基を1列に取り付け、残りの6基を
後ろ向きに並べたものでした。
機首から最後尾までが約40m、主翼の上面から艇体下端までは10mもありました。 |
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巨大モックアップ
ドルニエDoXが選定されると設計上の問題点を完全に把握するために
実物大の模型が製作されました。 |
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壮観なエンジン群
ブリストル製ジュピターエンジンは、2基一組で、流線型ナセルに収められ、各エンジンは
更に補助翼で結ばれ手いました。
これによって機関士は、飛行中でもエンジン関係の作業を行うことができました。 |
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エンジン室
12基のエンジンにはそれぞれ独立した制御装置が、前後1基ずつのペアで
配置されていました。 |
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1929年7月25日
ドルニエがボーデンゼーで初飛行に成功
10月21日には世界記録である169人の乗客と乗員を乗せ1時間の飛行を行いました。 |
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DoXの大旅行
当初ドルニエは、ブリストル製エンジン空冷星型を装備していましたが、出力不足が判明したため、
後に米国の600馬力カーチス製コンカラーに換装されています。
こうして要求性能を得たドルニエは大西洋を取り巻く国々の訪問旅行に旅立ちました。
1930年11月にアルテンラインを出発しイングランド、フランス、スペイン、ポルトガルなどを回り1932年に
ベルリンに到着しました。
総行程は35,000km、飛行時間は210時間、実に18ケ月にわたる長いたびでした。 |
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その後のドルニエ
大旅行のルフトハンザに引き渡されたが、有償の旅客を一度も乗せることなく、ベルリンの
航空輸送博物館に収蔵され、1945年の空襲で破壊されてしまいました。 |
ドルニエ DoJヴァル 124-76



ヒューズHK-1
スティッツ・スカイベビー 3F
巨大飛行艇ヒューズHK-1と、最小のスティッツ・スカイベビーは当時、それぞれ世界一をうたっていました。

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世界一大きな飛行艇と小さな飛行機
113-92-01 168-96-09 179-07-06 |
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ヒューズ HK-1(1947年)とスティッツ・スカイベビー |
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世界一大きな飛行機と小さな飛行機
ヒューズ HK-1(1947年)
第二次世界大戦中に潜水艦の脅威を受けた輸送船の代わりに大量の
物資や兵員を安全に運ぶため、当時のアメリカの有力者ヘンリー・カイザーの
発案により資産家ハワード・ヒューズが作った巨大飛行艇です。
機体は戦時中のため金属が使えず、全て木材と防水接着剤で作られたため、
スプルースグース(松材でできたガチョウ)と呼ばれました。
2台の戦車又は700人の兵士を積み、時速320キロで飛行する予定でしたが、
1947年10月2日に行われた試験飛行で水面から21.3メートル浮いただけで、
それ以上上がらず実用化出来ませんでした。
スティッツ・スカイベィビー(1951年)
レイ・ステイッツによって作られた「スカイベビー」は当時、人を乗せることのできる
複葉機としては世界最小でした。
胴体は鋼管羽布張り、主翼は木製羽布張りで58馬力のコンチネンタル・エンジンを
搭載し、時速264キロで飛びました。(写真では右下隅にあり) |
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Hughes HK-1 & StitsSkybaby
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| 諸 元 |
タ イ プ:輸送飛行艇
機体寸法:全幅97.50m
全長66.60m
全高24.10m
主翼面積:1,061.80u
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パワープラント:定格出力3,000馬力のプラット&ホイットニー製
R-4360-4A星型ピストンエンジン8基
性能(計画値):最大速度378km/h(海面高度)
巡航速度225km/h
実用上昇高度6,400m
巡航距離2,535km |
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設計上では乗客700人
一般的な愛称は「スプールス・グース」(スプールス材で作ったガチョウ)とも呼ばれ、史上最大の飛行機です。
ハワード・ヒューズ自身が機長となり、D・グラントを副機長としてロサンゼルス港沖合いを約1マイル飛行し、
高度を21mほど上げただけでそれ以上高度が上げられず失敗と言われた。
その後しばらく係留されたままでしたが、南カルフオルニアの飛行クラブへ寄贈され、
ロングビーチのでクイーンメリー号と共に並んで公開展示されたが現在では別の場所に移設されています。 |

この機もなぜか係留されたままで、引退しました。
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同じ運命の「コザック」
114-11-01 114-13-01 114-14-01 |
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アントノフAn225 |
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同じ運命の「コサック」
アントノフAn225(1988年)
上の「ドルニエDo−X」「ヒューズHK-1」と同じ様な運命なのが、
旧ソ連邦で製造された「アントノフAn225」です。
機体寸法 全幅:88.40m 全長:84m 全高:18.20m
重量 最大離陸重量:600,000kg
燃料、貨物積載量 燃料 300,000kg
最大ペイロード
250,000kg
1989年にパリ航空ショーに姿を現し、その完成された操縦性を世界から
絶賛されましたが、何故かその能力を発揮することなく、
現在はウクライナにひっそりと係留されたままです。
28個の主輪が600トンの重量を支えています。 |
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Antonov An225 Mriya " Cossack"「
アントノフAn225ムリヤ」はNATO軍ではコード名”コザック”で呼ばれています。 |
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航空ショーでは素晴らしい飛行を見せたがなぜか運行されない機
6発エンジンと共に大きな特徴となった巨大な双垂直尾翼は、
操縦性に影響を与えず胴体背部に貨物を積載することを可能としました。
ちなみに、Anー225の全幅を越えるのは、巨大飛行艇H2ハーキュリーズだけです。 |
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どのような貨物でも機内又は機外に積んで世界中どこえでも
運ぶとアントロノフ設計局は豪語したが? |
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巨大ヘリも一呑み |
次はヨーロッパが共同開発したベルーガ(白いるか)
ヨーロッパの4ヶ所の工場で組み立てられた飛行機の部分を、
最終作業の工場に運ぶため1994年に作られた世界最大の輸送機です。

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世の飛行界最大容量機「ベーガル」
179-07-25 114-03 |
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エヤバスA300-600ST |
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世界最大容量の飛行機ベルーガ
エヤバスA300-600(1994年)
「ベルーガ」(白イルカ)のニックネームが付けられた、この輸送機は
世界最大の貨物容量を誇る飛行機です。
この輸送機はヨーロッパの4カ所のエヤバス工場で組立られた翼や胴体などの
飛行機部分を最終組立が行われるトゥールースと
ハンブルグに運ぶために作られました。
まるで飛行船のようにふくれた機体はユニークに作られており、内部は直径7.7m
に広げられ、エアバスA340の主翼1セットまたはA320の主翼2セットもしくは
ヨーロッパ打ち上げロケット、「アリアン4」の完成した1段目を運ぶことが出来ます。
推進装置のCF−6型エンジンは新しく設計された物ではなく、
多くの他のエアバス機に使用されているものを採用しています。 |
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Air bus A300-600 ST
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| 諸 元 |
タイプ:アウトサイズ貨物輸送機(搭乗員2名)
機体寸法:全幅44.84m、全長56.16m
全高17.24m、
主翼面積260.00u
パワープラント:定格推力262.45kNのゼネラル・
エレクトリック製CF6-80C2A8
ターボファン・エンジン×2基 |
重 量:空虚重量86.500kg、
最大離陸重量155.000kg
ペイロード:最大ペイロード47,300kg
性 能:最大巡航速度780km/h(最高速度
最大証明認定高度10,670m、
航続距離1,666km
(最大ペイロード時)
または2,778km(ペイロード40t時)
または4,630km(ペイロード20t時) |
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エアバスの主翼
ホーカー・シドレー社は、A300の主翼にほぼ9年を費やしました。
その後のアエバス機の主翼は全て英国で設計生産されており、
近年ではフィルトンとチェスターのBAEシステムズの
工場が拠点となっています。
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エアバスの組立
その他主要なパーツはフランスとドイツでも生産されていますが、
これにはヨーロッパ中の多くの下請け企業が
部品製造に関わっています。
エアバスの最終組立は、A319/A321を除いて、
すべてフランスのトゥールーズで行われています。 |
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エアバスA330の主翼2枚を丸ごと収容するベルーガ |

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ベルーガ(手前)はスーパーグピー(奥)の代替機として開発されました。 |
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ベルーガの巨大な機体幅は、尾翼の操縦翼面に流れる空気を乱してしまいます。
この問題を解決するため、尾翼にはA340と同じものが用いられ、更に大きな翼端安定板を
取付けることで、左右方向の安定性を確保しています。 |
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初代はプロペラ機でした
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エアバス300−600が就航するまで一番大きかったスーパー・グッピー
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正面からは宇宙からの生き物のようです。
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搭載容量
1,410㎥という容量をもつB377SGは、1965年当時世界最大の航空機で、サターンV型ロケットの
3段目ブースターを輸送できるグッピー・フアミリー中、唯一の機体でした。 |
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スーパー・グッピーにエアバスA300−A310の胴体を積み込むところ。
スーパー・グッピーの操縦室ごと巨大ヒンジで開きます。 |
次は新千歳空港の「ちとせ・大空の夢アミュージアムへご案内します。